おはようごじゃいま〜す。
今回は百人一首の作者のヤバいエピソードを紹介ちて行きま〜す。
天智天皇
天智天皇は皇子時代(中大兄皇子)の時に大化の改新をしたことて有名ですが、冷静に考えて皇子の身分でありながらクーデターを起こしているのでヤバいです(乙巳の変)
それと天皇に即位してからは独裁政治で家臣の言う事をほとんど聞きませんでした。その結果弟である大海人皇子(後の天武天皇)の反感を買い逆に皇室最大のクーデターを起こされました(壬申の乱)
そんな天智天皇の百人一首はこちら!
秋の田の
かりほの庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
天智天皇
元良親王
元良親王は当時の天皇である宇多天皇の妻である藤原褒子(京極御息所)に手を出して不倫してました。そのことが宇多天皇にバレて謹慎処分を食らいます。そんな状況でも藤原褒子のことが頭から離れずに「会いたいよ〜褒子に会いたいよ〜命を懸けても会いたいよ〜」という気持ち悪い和歌を詠んでいます。その歌が百人一首になってるんですよ(笑)
そんな元良親王の百人一首はこちら!
わびぬれば
今はた同じ難波なる
みをつくしても逢はむとぞ思ふ
元良親王
(不倫がバレてしまって)、会うことがままならない今は、身を捨てたのと同じことです。いっそのこと難波にある澪標(みおつくし:水路に立てた標識の杭)みたいに、この命を捨ててでもあなたに会いたい。
蝉丸
蝉丸はいつ生まれていつ亡くなったのか?またそもそも本当に存在してたのかもわからないので謎が多すぎてヤバいです。
宇多天皇の子供だとも言われているし、物乞いだったとも言われているし、盲目だったとも言われているしどれが本当かわかりません。
ただ一つ分かっていることはこいつを坊主めくりで引いてしまったら自分の手札が全て無くなるということです。
そんな蝉丸の百人一首はこちら!
これやこの
行くも帰るも別れては
知るも知らぬもあふ坂の関
蝉丸
道因法師
道因法師(藤原敦頼)は和歌への執着が強すぎる人物でした。
和歌が上手くなりたい一心から京都に住んでいるにも関わらず大阪にある住吉大社まで毎月徒歩でお参りに行っていました。
また歌合で判定負けをした際は号泣して意見書を提出し判者を困らせることもありました。
道因の死後に出版された「千載和歌集」の編集者である藤原俊成が道因のことを「本当に歌に対しての志が立派であった」と評価されて18首加えてもらいました。そのことに道因は既に亡くなっているのですが俊成の夢に出てきて泣いて感謝を述べたそうです。そのことにいっそう哀れに思った俊成は更に2首増やして合計20首が千載和歌集に追加されました。
そんな道因法師の百人一首はこちら!
思ひわび
さても命はあるものを
憂きにたへぬは 涙なりけり
道因法師
秋の田のほとりに立てられた仮説の小屋にいると、屋根の苫(草)の網目が粗いので、そこに泊まる私の袖は夜露に濡れ続けている。