最新のイベントはこちら!

奈良時代の都が置かれた平城京について詳しく解説!

今回は平城京について詳しく掘り下げていきたいと思います。

藤原京→平城京→長岡京→平安京と移っていった2番目の都です。

なんと見事な平城京」でおなじみ710年に当時の都があった藤原京から遷都した平城京ですが遷都した理由などはどのような背景や理由があったのでしょうか?

奈良に平城京が必要だった理由

当時の奈良には天皇や貴族が住める屋敷などがたくさんありました。そのためただ住むための家として平城京を建てる必要はありません。

ではどうして平城京を作ったのでしょうか?それは当時の人々に天皇と国家の威厳を示すことにありました。国民にはもちろん、外国からやってくるからの使者にも「どうだ!日本はすごいものを造れるんだ!」ということを伝える理由が大きいです。

ではなぜそれを奈良に作る必要があったかというとそれは四神「朱雀(南)、青龍(東)、白虎(西)、玄武(北)」にふさわしい立地にありました。

北に山があって南には池がある。さらに東に川が流れて西に道が続いています。また奈良の隣には大阪がありそこを流れる淀川から難波と西国に行くことが出来きます。

また、宇治川から東国の入り口にも通じる琵琶湖も近いところにありました。そのような理由から日本の西と東までの水上交通の重要場所としても選ばれました。

平城京は710年に〇〇京から遷都しました。この〇〇に当てはまるのは?

  • 藤原
  • 長岡
  • 平安

正解!

不正解...

正解は藤原です。

平城京は710年元明天皇の時代に藤原京から平城京に遷都しました。

問題に戻る

どうやって平城京は作られたのか?

平城京を作るためには多くの人員が必要でした。当時の税の中には肉体労働として従事する税がありました「雑徭」

平城京を造るのに1日に必要な人数は3000~16000人といわれていますが、実際に何人が働いていたかは正確な人数はわかっていません。

しかし実際の工事はとても厳しく大変だったみたいんで逃亡する人もかなり多かったと言われています。でもその逃亡した人たちは出身地に戻っても捕まって処罰されてしますので帰ることが出来ず「浮浪人」になることがほとんどでした。また逃亡する人が出た時は、その地域から代わりとなる人を派遣しなければいけませんでした。このような背景から平城京の工事はとても大変だったみたいでたくさんの人が工事に携わりました

平城京は出来る前はどんな場所だったのか?

平城京の地は遷都の前はごく普通な農村と水田が広がっていました。

当時は大宝律令の国郡里制という地域支配が行われていました。

国郡里制とは?

地方は一般に、その下に、さらにその下にを設ける行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。そのため国郡里制と呼ばれる。

wikipediaより引用

のちに平城京のメインストリートとなる朱雀大路となる下ツ道を境にして東側が添上郡西側が添下郡と呼ばれていました。平城宮の朱雀門を調査した時にその下の層から飛鳥時代の集落が見つかっています。

また、和銅元年(708)に元明天皇が菅原に訪れた時に平城京を造ることになったため強制的に移住を余儀なくされた農民には布や米を補填しました。現在も西大寺のあたりに「菅原」という地名が残っています。

このように後の平城京となる地域には集落が存在していましたがそれほどたくさんの人が住んではいませんでした。

なので遷都後はかなりの人口が増えたと考えられています。

律令制の日本で肉体労働にあたるの次のうちのどれか?

  • 調
  • 雑徭

正解!

不正解...

正解は雑徭です。

律令制で肉体労働に当たるのは雑徭です。租は収穫した稲の3~5%を納める税。庸は都で10日間労働するかわりに、布を納める税。調は絹や海産物などの地方の特産物を納める税のことです。

問題に戻る

遷都後の藤原京はどうなったのか?

710年3月10日に元明天皇が藤原宮から平城宮に遷ると旧都となった藤原京は左大臣の石上朝臣麻呂が留守を預かる役人として残ります。そして大極殿をはじめ藤原京の建物は解体されました。また寺院や多くの建物が藤原京から平城京に移されました。

その後、藤原京があった場所は水田となってしまい都であった痕跡もすっかと消えてしまいました。

藤原京はわずか16年間だけの都で終わってしまいました。またそこに住んでいた人々も平城京の移転とともにほとんどは引っ越してしまいました。

平城京で暮らしていた人たちについて

次に平城京で暮らしていた人たちについて詳しく見ていきましょう。

平城京に住んでた人はどこから移住してきたか?

人々は皇族、貴族をはじめ僧侶や一般の人々奴婢など様々な身分の人が住んでいました。

そのほとんどは大和、河内、摂津、山城、和泉といった畿内と呼ばれる地域から移住してきました。これに加えて地方の役人が兵衛として平城京の警備にあたっていました。また全国から衛士が集められ宮城や平城京で警備をしていました。

兵衛とは日本古代の律令制のもとで,天皇に近侍し,宿衛等の任にあたった者です。

衛士とは律令制のもとで,朝廷や京の警衛にあたった兵士のことです。

どちらも似たような仕事をしますが兵衛は農民中心に結成され衛士は官吏の子弟を中心に結成されました。そのため衛士の方がより天皇から近いところで仕事をしてました。

平城京に都があったときの人口は何人ぐらいか?

当時の平城京は今の大阪や東京の大都市のように人口の出入りが激しい都市でした。

そのため正確に算出するのは難しいのですが藤原京の比較からは7万4千人ぐらい。平城京の宅面積から6万2千人ぐらいと見積もる計算がされてます。奈良時代に都の遷都に伴い増加したことを考慮しても10万人は超えなかったと言われています。

当時の人々の平均寿命はどれくらいか?

当時の奈良時代の人々の平均寿命はだいたい20歳前後でした。今の時代では考えられないほど短いですね。

平均寿命を知る方法として調査で見つかった人骨から推定するものがあります。しかし平城京の周辺からは人骨がほとんど見つかっていないので推定するのが困難です。

そのため部分的に残された戸籍などの記録から推測するとだいたい20歳前後となりました。

しかしこの平均寿命は地方に住む人々のもとに算出された数字です。

平城京に住む人たちは天皇や貴族など身分の高い人たちが多くいました。もちろん一般の人たちよりも裕福で健康的な生活を送れていました。実際に当時の天皇の平均寿命は60歳でした。貴族の中でも80歳ぐらいまで生きたものもいました。このような理由から平城京で暮らしていた人たちの平均寿命はもう少し高かっただろうと推測できます。

日本語の原型のヒントがここに?

平城京では日本各地からいろいろな人が集まってきました。そこで気になるのが”言葉”です。みんな同じ言葉を話していたのでしょうか?

そういう訳ではなく今の日本では考えられませんが都から東北地方九州南部に遠征などで行く際には訳語(おさ)呼ばれる通訳を連れて行っていました。

また日本のいろいろな地方でなまりの言葉(方言)が使われていました。

ただ、このような状況では平城京の工事をする際に意思の疎通が困難です。一緒に働く人たちと雑談することも難しいです。

こういった状況から急速に現在としての「日本語」が共通の言語として完成されていったと推測されています。

平城宮ではどのような仕事があったのか?

平城宮は天皇が住んでいる場所で多くの役所も集まっています。天皇は大極殿などで儀式や外国からきた使節と面会などをしていました。

役所に勤める役人は現在の国家公務員のような立場でした。主な仕事として戸籍の管理や納められてた税の管理をしていました。

平城京は平城宮に通う役人たちの居住地のために作られました。平城京に戸籍を持つ人もいましたが地方から出稼ぎに来ている単身赴任のような人も多かったことがわかています。

役人以外にも天皇や皇后の身の回りを世話する女官と呼ばれる女性たちの仕事がありました。

その他にも役所で天文や薬の知識を学ぶ学生のような存在もいました。

平城京に遷都をした710年の当時の天皇は誰か?

  • 聖武天皇
  • 桓武天皇
  • 元明天皇
  • 推古天皇

正解!

不正解...

正解は元明天皇です。

元明天皇の時に藤原京から平城京に遷都しました。

問題に戻る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です