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日本が他国に侵略されかけた出来事3選

あ~あはようごじゃいま~す。今回は日本がちょっとヤバかった出来事を紹介ちていきま~す

有名なところからマイナーなところまで紹介していきたいと思います。

刀伊の入寇(1019年)

出典:https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230718-OYT8T50121/

刀伊の入寇の出来事

「刀伊の入寇」とは平安時代の1019年の3月末~4月にかけて起きたと言われている出来事です。

対馬や壱岐といった国境となっている島に海賊船の船が50隻ほど襲来して各地で放火や殺人などを繰り返して博多への侵略を企てた出来事です。

平安時代で特に有名な藤原道長が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」と和歌を詠んだのが1018年ですからその翌年に起きた出来事です。

「あ~もう全てが自分の思い通りに行ってるな~」と調子に乗っていて平和ボケしてる道長にとっては青天の霹靂だったことでしょう(笑)

刀伊の入寇で活躍した人物

刀伊の入寇で活躍した代表的な人物は藤原隆家です。和歌を詠んで調子に乗っていた藤原道長が叔父にあたります。

日本に攻めてきた海賊軍団はだんだんと九州まで侵略してきて博多湾に浮かぶ能古島まで来ました。

そんときに指揮したのが藤原隆家です。

「海賊が攻めてきたぞー」という知らせを聞くと隆家は自ら軍勢を指揮して博多湾の警護に向かいました。「お前ら海賊を絶対倒すぞ!」と言ったかはわかりませんが見方を鼓舞して士気を上げることをしました。

刀伊の入寇でどうして日本は侵略されなかったのか

刀伊の入寇で日本の軍勢の指揮をとった藤原隆家には都から連れてきた屈強な部者たちがいました。更に地域の豪族たちが自分の領土を守るために軍団として集まり、隆家の指揮がうまく機能したから侵略が防げたと言われています。

元寇 文永の役(1274年) 弘安の役(1281年)

出典;wikipedia

元寇での出来事

学校の教科書でも勉強するので知っている人も多いと思いますが文永の役(1274年)弘安の役(1281年)の2つの出来事を総じて「元寇」もしくは「蒙古襲来」呼びます。

当時イケイケで植民を急速に増やしていたモンゴル帝国のフビライ・ハンが攻めてきた出来事です。

元寇と名前のついた由来は当時のモンゴル帝国が「元」と呼ばれていて外敵の意味を示す「寇」が合わさって呼ばれています。

文永の役(1274年)

もともと元のトップのフビライハンが日本に何度も「我に従え」と何度も使者を送ってきていました。日本はずっとこの申し出を無視していました。

フビライ的にも当時中国の王朝の「南宋」と戦争していたし海に囲まれていて遠い日本に攻めるのが大変だんたんでしょうね~

そんなフビライを無視し続けたのでフビライが激おこプンプン丸になって日本を攻めることになりました。

まずは1274年に対馬侵攻から始まりました。その後壱岐にも侵攻してきました。

その状況をヤバいと思った太宰府が京都や鎌倉に向けて急報を出して九州の御家人が大宰府に集まりました。

初めは元軍が優位で日本がヤバかったんですが神風が吹いていったんは元軍が撤退していきました。

刀伊の入寇でも最初に攻められてるし対馬と壱岐に住んでる人大変ですね~

文永の役があったので幕府はいろいろな対策をしました。

一つは異国警護番役の強化です。異国警護番役とは鎌倉時代の後期に幕府が九州の御家人に対して課した軍役です。元軍の再襲来に備えて人数を増やすなどの対策をしました。

もう一つは「元寇防塁」と呼ばれる石を積み上げて元軍は入って来れないように対策しました。

wikipediaから引用

弘安の役(1281年)

1281年にまた元軍が攻めてきました。こちらは弘安4年に起きた出来事なので「弘安の役」と呼びます。どれくらいの大群が来たかというと「元史」によると約40万人導入されたとされています。この戦いも志賀島に上陸したことから始まりますがまたも台風という名の神風が吹いて元軍は帰っていきました。

その台風の被害がどれくらいすごかったというと「癸辛雑識」では約4000隻の軍艦のうち残っていたのはたった200隻しかなかったと言われています。

元寇で活躍した人物

元寇で活躍した人物と言えばやはり北条時宗です。北条時宗は鎌倉幕府の8代執権です。

元寇で活躍した異国警護番役を設置したり御家人の指揮をとりました。

しかし、外からの侵入の戦いのため思うように御家人に対して恩賞を与えることが出来ませんでした

元寇でどうして日本は侵略されなかったのか

やはり神風が吹いたことが大きいでしょう。ただ元寇の戦場になった北九州には年間2~3の台風が発生していました。台風の来るタイミングがベストだったというべきかもしれません。いずれにしても日本を守ってくれたことに変わりはありませんね。

西洋列強による日本植民地計画

出典;日本の旅侍 バテレン追放令

西洋列強による日本植民地計画の主な出来事

この出来事は一つでは表せないのでいくつかの出来事を紹介したいと思います。

教科書で日本が鎖国していたりキリスト教の信仰を反対したりといろいろ勉強したと思います。

その時は「こんな出来事があったんだ~」ぐらいで終わっていたと思いますが勘の鋭い人は「どうしてそんなことをするんだろう?」と疑問に思ったことがあると思います。

理由はいくつかありますが一番は「外国に植民地にされることを防ぐ」です。

それのキリスト教と何が関係あるの?と思うかもしれませんが植民地化にする手段として戦争だけではありません。

思想を徐々に自分たち寄りにして行って中からじわじわと変えていくことも同じです。

その代表的な例がキリスト教です。

バテレン追放令

バテレン追放令とはキリシタン宣教師の国外追放を規定した法律のことです。

なんでそんなことしたん?って感じですかこれには明確な理由があります。

豊臣秀吉の主君である織田信長が生きていた時代から布教を許してましたし信長も宣教師などに友好的でした。信長が本能寺の変でいなくなってからも初めは意思を受け継ぎ布教を許していました。

ただ、秀吉が見過ごせない出来事が発覚します。それは「九州平定」のために九州に遠征に行ったことがきっかけですが大量の日本人が奴隷として海外に売られていたのです。

またその他にもキリシタン大名になった大村純忠有馬晴信土地を既にイエズス会に寄進していました。

また秀吉は西洋列強の植民地化計画を知っていたとも言われています。

その方法とは初めに宣教師(ザビエル)を送り、次に商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取るといったやり方です。

そのようなことになりそうだったので秀吉はバテレン追放令を出しキリスト教を禁止していきました。

踏み絵

出典:wikipedia

豊臣秀吉亡き後、徳川家康が江戸幕府を開いてからもキリスト教の弾圧は続きました。

その代表的な出来事が踏み絵です。これも日本を西洋列強から守るための手段でした。

その後に鎖国を行ってオランダなどの一部の国以外との国境を完全に断ち切りました。鎖国の理由も西洋列強から日本を守るという理由がかなり高かったと言われています。

活躍した人物

豊臣秀吉徳川家康です。どちらも戦国時代末期に活躍して天下を取った人物ですがこの2人が日本を外国の支配から守った要素が大きいです。この2人がいなかったらもしかしたら日本は今頃西洋列強の一部になっていたかもしれませんね。

どうして日本は侵略されなかったのか

日本が西洋列強に対して侵略されなかったのは当時の指導者(豊臣秀吉や徳川家康)が対策をした部分が大きいです。

また、日本の武士たちが強かったというのもありますが他には日本人の感性がキリスト教よりも仏教や儒教、神道に向いていた部分も大きいと思います。

宣教師が「キリストを信じれば神に救われるという言葉に対して日本人が「そのキリストを知らないで死んだうちの御先祖は地獄から救われないんじゃね!?」という返答をして宣教師を困らせたことなど価値観が先祖などを尊重する日本人の精神に馴染み切らなかったことも理由かもしれません。

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